onemli〜イシイ家の生活哲学

自然なワインのソムリエとコミュニケーションセラピストが大切にする親子と生活の育み方

公園にて

このところ特に気に入っている公園は 歩いて10分ほどの史跡のどんつき・・・

行き止まりのところにある公園

 

ここには昔ながらのコンクリートで出来た山の形で両方側とも滑ることのできる滑り台、ブランコ、そして砂場があります。

珍しく「水道」も生きています。

ここの良いところは「巨木」があること。

夏でも、この巨木のおかげで強い日差しが遮られ、子供達だけでなく親も楽に見守れるのです。

 

そんな公園に、昨日は珍しく「4人とも同学年」の子供達が集まりました。

もちろん他にはお兄ちゃん達も活発に遊んでいるのですが。

それがとっても面白い。

正確には月例レベルでは8ヶ月くらい離れていたりもするので、随分と小さい子いるのだけど

それぞれの安全性を自分で理解した滑り台の滑り方はサイコー

えいたろうは滑ることよりも「登ること」に一生懸命クオリティを高めていました。

随分と軽やかに登れるようになったよ

 

その子供達の見守りは、お母さんのところ、おじいちゃんおばあちゃんのところ、そしてうちは夫婦と私の娘(20歳) もう一人はお父さんが見守っていました。

 

男親の見守りは危なっかしいように女親は感じます。

昨日はそのエピソードとしてもとても興味深く、あー、男親に学びたい!と思ったことがあったの。

そのお父さんは、1歳半の男の子(二人兄弟の下の子)をお当番で連れてきていました。

その子は小さいながらも、「普通のブランコに」行って、しっかりと握ってかなり揺られても楽しそうに揺られてた。

実はうちのえいたろうは、まだブランコには興味を持ってないので、私も積極的には近づいていませんでした。それ以上に、なんか「手を放しちゃいそうだよ。」不安な気持ちもあったり。

そのお父さんに「随分乗り慣れてますねー」とお話を持ちかけたところ、

「はじめは手を離して落ちちゃったんですよ。でも、それ以降はしっかりと握ってます。痛い思いをしたから、もう学んだんだと思うよ」と。

 

オォォォ!

素晴らしいっ

 

確かに「痛い思い」は小さい頃の方が、痛みも小さい。

でもさ、なかなかそれを「さらっと」できないんですよ。

砂場での喧嘩とか、転ぶとかそんなのはあまり気にしないけど、

自分の力以上にかかっているパワーや、自分の身長以上の高さのところ。

そういうところに、手放しで「行ってみよ」って見守ること、なかなかできない。

 

私は以前の主人との子が、もう二十歳以上なので、そのことも話をしたのですが、

ある時期、母親たちが当たり前のように「公園デビュー」とかいって連れて行ったいた頃も経験している私は、

「お父さんたちももっとたくさん公園に出没していたら、今みたいな痛みを知らない子ってのが少なかったろうな。」なんて思ったりします。

 

ま、今からこう言うお父さんたちの積極的参加が公園にあることで、

可愛い子には旅をさせろ。の本質的な意味をここでも体験できそうだからいいな。って話なんだけどね。

 

母親の未然に防ぎたい気持ちは、いろいろなところに役立つけれど、

父親の「やってみて、失敗から学べ」が私てきにはとても気持ちいい。

第一、親同士の話も、探り合いになったりしなくて、フランクで気持ちいですもん。

私は幸いあんまり関わりを持つことはなかったのだけど、カウンセリングなんかでも相談の中には「母親同士の付き合いで、子供達が困惑している」ってものは結構多かったし、今でもそういう相談はありますよ。

 

家族社会の人生プランについては、失敗して学べの前の「想定を現実的に多く持ち、様々なプランを持つ」ことで、失敗の確率は減った方がいいこともたくさんありますけど、生身の人間がどれくらいで痛いのか、傷つくのか。については、多分男性のものの見方の方が、子供達にとっては良い幼少期をおくれそう。

 

何より、公園での大人同士は、「仲良く、ジェントリーに」「裏表なく」「相手を尊重して」ってのがないとね。

そういうのを見て子供は安心するし、のびのびできるようになるよ。

 

なーんて話しながら思った私。

 

肝心なえいたろうは、結局最後まで滑り台の登りと滑りのクオリティを上げるのにマイペースな性質全開でした。

 

そして、ほのかに、この4にんの関わり方を見ていたら、

なんとなくこのまま社会人になっても「同じ」感じ、「同じ」匂いを感じましたよー

 

小さい頃から、こう言う関わり方を観察していると、

適材適所で最高のパフォーマンスを発揮出来るチーム関係を作ることができますって。

きっと。

 

 

 

 

 

えいたろうのたからさがし

今まであまり「アイス」という物体に接触しないで済んでいた瑛太

2歳を過ぎ、だんだん知恵がつくと同時に、我が家の冷蔵庫の一番下の引き出しが

 

「冷凍庫」=ひんやり〜

ということがわかり

 

さらに、その中から「アイス」なるものを発見した。

 

本来冷蔵庫や冷凍庫の中の温度帯のものを「お腹に入れる」ということはあまりしたくないなー。というのが本音で、お水なども冷やさずにそのまま飲みますが、保存という機能から使っている冷蔵庫に、ちょこっと大人の都合のものも多々あるわけです。だんだんとそれらの常備はなくなってはいるものの、まだまだです。笑

 

その輩は「ハーゲンダッツ

 

ハーゲンダッツに接触後からは

何か一つことが終わると、冷蔵庫の前にやってきて、その物体を取り出し

「アイシュー??」と私に持ってきていた(あ!瑛太郎アイス出しちゃったよ。の言葉からアイスは覚えてしまうという・・・汗)

そのうち、先にスプーンを引き出しから出してアイスを出し「両方手渡す」というkたちに変化。

さらに、だんだんと回数が増え、一回にスプーン1さじから2さじでしまわれてしまうアイスを、なるべく食べようとする意気込みが見え隠れしてきた。

 

なので・・・

 

今はパーティーアソートピノを用意(もともと滅多にアイス食べないので、ちょこっとだけ用意するにピノの小包装を選択)

 

そして、空箱を冷凍庫内に入れ、本体はスーパーの袋に入れ、わかりにくい状態で隠しています。

 

そして彼の見ていないところで、「たまに」その空箱に「一つ、または二つ」をこっそりと入れることにしています。

 

たまーに開けて「あった!!」という経験をすることで、「ない時」と「ある時」をその空箱で経験する。それはピノの箱に意識を集中するための工夫になります。

彼は冷凍庫を開けるとその「ピノの箱」に集中し、それ以外のところを探すという行為にはまだならない知性の段階なので。

 

彼の知性の段階は、自然界の中で暮らしていたとすると

親の手の届くところから若干離れ、何かあってもすぐに帰ってこられる距離感(またはこちらが何かありそうな時にすぐに行ける距離感)を、自由に歩き回りものを探す。という段階にあります。

なので、今の家の中での興味の範囲は

地面(自分の目の届く部分、探せる部分)から高さ120センチ(ソファーに乗って、立ったままものを物色できる程度)が行動範囲。

その範囲内にて、できるだけ、興味を引くものを手にとっていいような環境にしています。

逆に言えば、その中に今は危険なものはありませんが、

興味のないものの中に置いてみたり、ちょっと苦戦して出してみないと出せないような場所にも興味の引くものを置いてみたり。そんな宝探しを取り入れています。

 

どんなものに集中するのかを観察するのはとても楽しいし、次の知恵比べのネタ探しをこの中からするのですが・・・

 

先日はそろそろおやつかな?の時間帯で、遊んでいるおもちゃのちょっと先に、「ご飯(この時はおにぎりでしたが)」の写真の乗っている雑誌をパラっとめくった状態でさりげなく置いてみました。

いつもなら「鳩(うちでは鳩サブレのこと)〜」と言いそうな時間に

「あふん!!(ご飯のこと)」とモーレツアタックをしてきました。

 

お腹がすくイコール何に結びつけるのか?

が、今はまだイメージで出てくるのではなくて、目に見えたなら、それから連想できるものに移行しやすい。という知性の段階です。

なので、この時間に「お菓子」じゃない選択を「宝探しの中から見つけてくれた」ことで、「ご飯」にできたのは面白かったです。

 

そいういう観察から、瑛太郎に「まずはストレスのない状態で」色々なものと触れ合えるようにしてみると、

いかに普段の生活の中で「そのきっかけを生むサインとなる情報がある」かがわかります。

特に3歳までの間、見つけたものをゲットする喜び。という図式をたくさん取り入れたい段階に、

できたら、(できるだけ)大人の社会の都合からできた「面白そうなもの」よりも体が欲しているものをストレートに見せることで、本能的な必要性の強化が図れるのであれば、今はそうしてみたいなーと思っています。

 

 

 

 

 

子供たちが羽ばたきやすい社会

今の子供たちの大まかな傾向の中に

「競争しない」「隠さない(隠せない)」「個の尊重」が著しいのは

2000年代初頭から少しずつだけど見えてきていたものです。

今2016年

今年は色々な意味で「元年」と言われる時

 

これからの「子供のために」考えられた「今の大人からの画期的な(?)方法」というものも多く発信されている。

でも

その多くは「今までの私たち大人が」「色々なことができない子供のために」考えていることがほとんどで

 

「今の子供たちが生きやすくするために」「私たち大人が生きてきた概念を変える」という方法で発信されているものは非常に少ない。

 

なぜ、いわゆる発達が以前の子供たちと同じ程度の速度で発達しなければいけないのか?

なぜ、同じ学年の子に「追いつくための方法」をその子たちが試みなければいけないのか?

なぜ、昔からポピュラーだったかくれんぼを「できるようにならなくちゃいけない」のか?

なぜ、そうやって「今までに合わせられる方法」の提案になってしまうのか?

 

 

今の大人に一番大切なことは「その子たちを観察し、観察し、観察すること」だ。

この観察を通して、今の社会構造のおかしなところを、思い切ってこの子たちに合わせることで、シフトチェンジすることを考えることだ。

 

前提として、その子らの精神性は非常に高いことを、よく感じることだ。

そして

まずはその子の情動の発達と知性の発達の特性を見ることだ

その子のそれらの発達によって興味を持ちやすくなった物事で育むことだ

年齢を関係なくそれらを見ていくことだ

その子の性質の中で「音に反応するのか」「色に反応するのか」を見つけることだ

その子のものの見方が「全体性を見ながら様々なことがフォローできる、まんべんない子供」なのか「全体を作り上げる一つ一つのパーツである段階や役割をものすごい集中力で全うできる子」なのかを見分けることだ

その子の時間の速さ(テンポ)を感じることだ

その子が他者と自分のどちらを優先しやすい子供なのかを見極めることだ

その子がどういう切り替えが楽に取り入れられるのかを見つけることだ

 

それらが「学校の根幹にある」ことが必要だ。

そして

 

座学という形の意味のないこと(現場で体験して得られるものから学ぶ学業)を最初にしないことだ

 

食べる時間も集中する時間もそれぞれなのだから、その子の1日のスタイルで計画していくことだ

 

感性が豊かで他者との境界線が広く、尊重する前提で過ごすのだから、部屋を広くして対応することだ

 

大人が今無い知恵を絞り「新しい教育現場を作りたかったら」

考えるべきことは

「どうやって彼らを、オーケストラの一員(学校という)にするか?またはしないのか?」を真剣に考えることなんだ

 

 

 

 

 

 

 

このブログは・・・

もともとはこの"onemli"という言葉は

相方のバースデーイベントの際に色々と調べた時に見つけた言葉

トルコ語の「大切な」というような意味合いのもので

発音が「オネムリ」に近い

 

この時期お腹には5人目の赤ん坊がいて

このオネムリという響きに「つい」反応してしまったのだろう

 

大切なモノ

人でも物事でも

私の中には常に「訓え」のようなものを見つけるサーチが働いている

 

そしてそれは、仕事柄を飛び越え

ライフワークとして

自分のキャラクターとして

沁みついているものなのだ

 

18年ぶりの赤ん坊の誕生から

もう一度

色々な意味で「親子」「家庭」「社会」「生活」をリアルに見つめながら

私のライフワークを綴っていこう

 

そんな気持ちから始まるのが

このブログです

 

私の世界観(主観)で宇宙を感じています

様々な世界観は尊重しています

その中で共通に感じあえる「真実」のためのヒントに

 

なるかな???

 

と言うことを集めているので

 

ご意見無用でツラツラさせてください